缶詰の常套句

万年筆とか写真とか。

あの箱の使い道

 まあ、サガミほど考え抜かれたプロダクトは無いわけだ。以前、こんなツイートをした。

 カメラのAF作動音がうるさい上にエンコードミスで画質が悪くて申し訳ないのだが、手前に折られたベロと蓋の内側の二重になったところ(描出力皆無)が噛み合い、パチンと軽い音がする。開ける時にはバネのようにあるところまで一気に持ち上がり、そこから僅かに力を加えると蓋が開く。ストレスフリーどころか、エロい。これがトランプ式のケースだったら全然違う訳で、開くのは無様、閉めるのは億劫。途中で蓋をして保管することが想定されたお菓子の箱なんかも、切れ込みが入っているだけでぜーんぜん使いやすくないし、何なら一気に食べる。

 こんな素晴らしい箱を捨ててしまうのはいかにも勿体無い。6個入りだが、6回の開け閉めでへこたれるほどヤワな作りではないのである。というわけで、

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 持ち歩かないカード入れにした。蓋が大きく開く訳ではないので、若干出し入れがしにくいが、もうちょっと良い中身を思いついたら入れようと思う。

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 そのままでは見た目がモロなので、紙を貼っている。sagamiのロゴが赤字なので、赤い折り紙を裏向きにするといい具合に隠れてくれた。部分的にパッケージが見えているが、これもまた一興。

 With Sagami, No Life. それでは。

バベルの塔の前前前戯? ベルギー奇想の系譜

 9月はめっちゃブログ書こうと思っていたのに、全然書けてない。やれやれ。適当に猛スピードで書き上げることにしよう。

 話題としてはすっかり旬を逃してしまった感があるが、数ヶ月前に『ベルギー奇想の系譜』展(@兵庫県立美術館)を観に行ってきた。どうせ、ブリューゲルの前座なんだろうと思っていたが、こっちの方が楽しかったくらいだ。みんな大好きボス(派)の版画から21世紀の彫刻やインスタレーションまで、というまさに系譜的な展示。進めば進むほど人が少なくなっていくのは一体どうしたことだろう。マグリットもいるのに。

 ボス派の絵(というか、15-17世紀のフランドル美術、になるのか)は宗教的であると同時に大衆的で、日本で言えば浮世絵みたいな位置にあるのではないかと思う。しらんけど。聖人伝説に主題を取ったものが多くて色々と解説があるわけだが、取り分け頻出する画題が、聖クリストフォロスと、聖アントニウスの誘惑。アントニウスに関してはがっこぅでならったので「あーあれね」って感じだったのだが、聖クリストフォロスの物語に驚いた。何故って漱石の「夢十夜」の第三挿話とクリソツな伝説だったから(クリストだけに)。もしかしたら周知のことなのかもしれないし、或いは早とちりで、漱石の方は別の下敷きがあるのかもしれないが。
 夢十夜のそのエピソードを聖クリストフォロス伝説の翻案だと考えるとなかなか怖い。伝説では、無償で川渡しをしていたおじさんがやけに重い子供を背負って渡すことになり、不審に思って名前を尋ねるとイエス・キリストを名乗ったというもの(もうちょっと続くが割愛)。「夢十夜」では語り手が夢の中で盲目の我が子を背負っているが、それが徐々に重くなり、以前殺した人間の生まれ変わりだと明らかになる。イエスが重いのは、人類の罪を背負っているからだという。「夢十夜」の場合、罪は語り手=背負い手の罪である。罪を肩代わりしてくれる神などないのである。よって救済もない。漱石を読んでいると、神の無さに打ちひしがれることがある。神は無いのに、罪には敏感である。無論その罪は神との関係性におけるそれでは無いのだろうが。

 話が逸れたが、文系をやっている人間にとってボスと言えば阿呆船である。ポリティカリーコレクトに言えば「愚者の船」か。この題を冠さない絵にも、同様のモチーフが見られる。愚者の内実は「狂人」であり、そこには今では同性愛者や障害者とカテゴライズされる人々が含まれる。フーコーは拾い読みしかしたことしか無いのでよく知らないが、「狂人」を海に流す、みたいなことが昔行われていたらしい。制作意図というのもよく分からないのだが、色んなキャラの集合イラストのようで楽しいし、どうも暗いテーマではなさそうである。集合イラストという点から見ると阿呆船の集合具合は優しい方で、ブリューゲルなんかになると、登場人物がとても多い。「とても多い」などと書くと多くなさそうだが実に多い。色んな人が色んな処で色んなことをしているのをキャプチャした絵画の傾向と、百科全書的な欲望との関連が指摘されていたように思う。
 それで観ていて思い出したのだが、寄藤文平のイラスト、特に『死にカタログ』等々の見開きイラストは、彼らの版画と非常に近いものがある。随所で様々な人間が好き勝手なことをしているが、全体としては筋の通った感じ。思わぬところに系譜が繋がるものだ。

 19世紀以降のベルギー美術の展示もたいへん面白く、好みの絵や作品はたくさんあったのだが、余り書くことがない。ひとつだけ。マルセル・ブロータールスという人の『猫へのインタビュー』という作品。何が待ち受けているのだろう、とウキウキしながら仕切られたブースに入っていくと、白い空間の奥にスピーカーが二台。ナメてんのかと思うほど音の小さいそれに近づくと、流れている音声のスクリプトが置いてあり、「これはパイプですか?」の他、現代美術に関する問いかけに対して猫がニャーニャー鳴く音が流れてくるというもの。空間の広さとボリュームの低さは音が漏れてネタバレにならないように、という配慮もあるのかもしれないが、「よい音響」というものに対する斜に構えた態度とも思える。
 パイプに関してはもちろんマグリットの<<イメージの裏切り>>が背景にあり、この作品に当てはめるならさしずめ「これはインタビューではない」、あるいは寧ろ「これはインタビューである」ってな表現になるのかもしれない。

 ところで図録まで買ってしまった。フランス製本の図録って、余り無いのではなかろうか。しかしカードで払わせてほC。というのはさておき。県美プレミアムの「Out of Real」もちゃんと観に行って、めっちゃ面白かったんだけど、もう眠いので書けない。

 後日、意気揚々とバベルの塔(@中之島)を観に行った。ウィーンで観たのとなんか違うな、と思ったら別バージョンである。<<バベルの塔>>はふたつあるのだ。絵画も立派だったが、最新技術を用いて制作された高精細拡大複写と、3DCG映像がすごかった。こんな半端無く金の掛かりそうな技術によって、昔の一人の人間の手仕事の凄さがいやましに増すなんてすごい、夢がある。<<バベルの塔>>はめっちゃ良いし、ブリューゲルはかなり好きなのだが、前菜に関してはあまりぐっとくるものがなかった。物販に気合が入っていた。鳥獣戯画かってぐらいグッズが作られてあった。マネタイズも大変だなあ。以上。

『海辺の生と死』とかいうからアナベル・リー読んだじゃん。

久し振りの更新。朝から神戸で『海辺の生と死』を観た。満島ひかりである。結婚したい。

その後ライブに行ったりなんかしていた所為で考えが全然まとまっていないので、ネタバレとか気にせず適当に書くことにする。あと、原作のこととか監督のこととかなんにも知らないしまだ調べたりしていないので、変なこと書いちゃうかも。

満島ひかりのイメージビデオみたいな映画だった。脱ぐし。彼女が魅力的すぎて、他の人が全員霞んでいたし、そもそも、タエ先生との関わり以外で他の人物が描かれることがないので、ベクデルテストじゃないが、やっぱり彼女のための映画なんだって感じがする。男のほう、なんていうか無限に代替可能な気がする。ともかく、テーマは生と死っていうか昔ながらの、数千年来の「愛と死」である(とひとまず言っておかなければならないのだが)。新鮮味は無いが、みんな愛と死の物語が大好きだし、満島ひかりにはそれがものすごく似合う。男が最後に(と取り敢えず言っておくが)踏んだ砂をかき集めて抱きしめるシーンなんて、これまでの負けた高校球児を全員束にしてぶつけても到底叶わないだろう。

きれいなワンピースを来て、結局靴を脱ぎ捨て、海を泳いで海軍の隊長に会いに行くトエ先生。結局最初の晩は会えないのだが、ハンカチを待ち合わせ場所の小屋にくくりつけておく。正確に思い出せないのだが、「トエは来ました」に始まる手紙(渡せたのか、よくわからないが)が最高にエモい。あれは名文。もういっかい観たい。

CMで中島みゆきの「ファイト!」を歌っていたときも思ったが、満島ひかり、めちゃくちゃ歌がうまい。好き……。この映画でも、実によく歌う。その歌はほとんどが島の言葉で歌われる伝承的な歌で、作者や歌い手の固有名ではなく島の者としてのアイデンティティに結びついている。よそからやってきた朔中尉は、そうした歌を教わることで島民やトエ先生との親好を深めていくという寸法。そうして滑らかに、流れるように歌われる言葉と、語られる言葉との絶望的な乖離。それは島の言葉と標準語の乖離にも似て、他者に己を伝えることの困難を語る。しかしだからこそ、二人は縁を結ぶことになったのだとも思う。隔てるものは身分や柱だけではない。

とにかくとにかく、この映画は満島ひかりの魅力を全面に押し出している。しかし、そのために、戦争という舞台が本当に必要だったのだろうか、と終盤まで訝っていた。愛と死の物語を語るとき、戦争を使えばそれが余りに美化されすぎる。どれだけプロパガンダ色の強いシーンを挿入したところで、こんなにも、目前に迫った死によってしか印し付けられない愛を描いてしまえば、特攻隊をパトリオティズムのロマンスとして描いたなんやかんやと五十歩百歩になるのではないかと。だが、最後に分かったのは(実は冒頭から暗示されてはいたのだが)、そんな話では全然ないということで。

結末を言ってしまえば、朔中尉は出撃せず(船が直らなかったのかな?)、終戦を迎え、村の誰も死なず、トエ先生も自決しない。朔中尉から大坪を介して「元気デス」という手紙を受け取るところでこの映画は終わる。そう。「な〜〜〜んだ」って思うと思う。これだけ大騒ぎして死なないのか、死んだ方が感動するのに、みたいな。そう、死んだ方が泣ける、そのことに対する批判なのだと思う。愛と死のロマンスに、戦争のロマンスに、この映画は挑戦していると思う。二人の愛の前提としてあった切迫する死が消え失せたとき、物語は不可能になるだろう。唐突に映画は終わる。無名の人々に歌い継がれる歌のような生を多分肯定しているのだろう。


アナベル・リー」はポーの詩だけど、これも愛と死、と言えば言える。人生最後に、幼少期の恋人?婚約者だっけ?の詩を作って死ぬとか、格好いい。 "It was many and many a year ago, / In a kingdom by the sea"という文句で始まるので、上映前に思い出して読んでいたのでした。

新宮晋の宇宙船

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《雲の日記》2016年 構想画 ©Susumu Shingu

 美術館の展示室に風が吹いているというのは、驚くべきことだろうか。いや、多分そうでもない。作品を万全の状態で展示する以上、空調設備は欠かせないわけだし、鑑賞者が動けば微かな風が起こる。だがそれは普段意識されずにいる。まあ、絵なり何なりに集中しているのだから当たり前のことだ。

 新宮晋は「風と水の彫刻家」であるらしい。もう終わってしまうのだが、兵庫県立美術館で行われた彼の個展に行って来た。多くは天井から吊るされた骨と皮だけのなかなかに巨大な構造物が、どこかにある送風機の微弱な風を受けてどこか歪に、不規則に動き続ける。動きは力を可視化する。その意味で彼は風と水を彫刻しているのだろう。石の彫刻家がまだ誰にも見えない何かを、鑿を使って浮かび上がらせるように、新宮はこの奇妙な物体によって風と水の動きを見せる。彼の作品が骨と皮だけなのは、風と水が肉となってそれを動かしているからなのだと思う。

 最初に、展示室に風が吹くなど驚くに足りないと書いたが、水がじゃぶじゃぶ流れていることには、度肝を抜かれた。ひとつの前情報も無しに展覧会を訪れると、こういう驚きがあって良い。どこかノスタルジックな機構の不規則な動きはしかし、流れ込む一定の水量によってもたらされる。だから余計にからくり人形めいていて魅力的なのだろう。

 おそらく彼の作品は、屋外の自然の風が当たる場所に設置されることが想定されているのだが、その映像を見てもいまいちピンと来なかった。もちろん美術館に展示されることで権威がまとわり付いてなんか高尚な感じに見えてしまっているという面はあると思うのだが、それよりも光の効果が大きいのではないかと考えられる。金属製の水を流す物体は照明を反射し、その区画はプラネタリウムのように移動する光で満ちる。そんな時こそ「宇宙船」という言葉が相応しい。閉じた空間で広い宇宙を思うほど楽しく美しいことはないのだ。

ミュージアムぐるっとパスが便利。但し学生は注意。

宿酔で元気がないので久し振りにブログ。まあ、タイトルで終わりなんですが。

年の瀬に「ミュージアムぐるっとパス・関西2016 普及版」を買った。これは近畿と中部、中国辺りの美術館の割引券や無料入場券が綴になったガイドブックみたいなもので、多くの美術館の常設展には無料、特別展には団体価格で入場することができるという魅力的なはずの代物。有効期間が3ヶ月の普及版は1000円なので、結構簡単に元が取れるんじゃないかと思っていた。

ところがこれ、一般料金から団体料金には引いてくれるが、学生料金から学生団体料金には引いてくれないのだ。大抵のところで、団体料金より学生料金の方が安い。そんな訳で、このパスを使って行ける美術館、博物館の選択肢が大幅に狭まってしまった。つらいね!!!!!!

もちろん、企画展も無料になる館(主に、企画展の会期中は常設展がない小規模なところ)もあるので、そこを狙って行けば元が取れないことはない。しかし更に悪いことに、「関西文化の日」というあちこちの美術館、博物館が入場無料になるイベントの折に結構回っていたこと、名古屋とか岡山とかこれを使うために行くには遠いことがあって、結局西宮市大谷記念美術館で使っただけになってしまった。つらいね。

そういうわけだから学生諸氏は注意されたし。

ちなみにこのパスは掲載されている美術館やJRのみどりの窓口で購入出来るのだが、みどりの窓口では引換券をくれるだけで結局美術館で交換する必要がある。それなら美術館で購入する方が手っ取り早い。これに関しては無駄足ばかり踏んでしまった。おとなになったらまたかいます。

www.museum-cafe.com

『エゴン・シーレ 死と乙女』はちょっぴりえっちな活人画だった

 シーレは一番好きな画家。それにしても何で今シーレなんだろう、と思いながらもフライヤーのカットに惹かれたので観に行った。シーレを描いた映画だと思うとちょっと物足りないけど、格好いい仕上がりではあった。


※伝記映画にネタバレが存在するのかよく分からないけど多分あります。


 1918年のシーレの死と、モア、ヴァリ、エディット(とその姉)という三人の女性との出会いを交互に描く、構成はふつうの伝記映画。<<死と乙女>>のモデルでもあったヴァリとの関係を中心に据えていて、思春期を脱していないようなシーレの強烈な自意識みたいな部分は全然出て来なかった。最初から最後まで激モテ女たらしで、まあ確かにモテたのかもしれないけど、終始「成熟した大人の男でござ〜い」みたいなのはなんか違う気がする。でも多分監督の方がシーレのことをただの一ファンなんかよりずっと調べていると思うので、違うとかは余り言わないでおこう。

 でもせっかく鏡をモチーフとして仰々しく使っているのだから自画像を描くシーンが一度ぐらいあっても良いじゃないか、と思った。生涯に渡って繰り返し、執拗に、最も手近なモデルでもあった自分自身を見つめたシーレの映画に自画像がひとつも出て来ないなんて〜〜〜、それにシーレの画風の変遷とかもっとしっかり〜〜〜〜〜、と憤っても仕方ないのだな。これはシーレの画業を紹介する映画ではなくて、エキセントリックなカリスマ天才イケメンのめちゃモテロマンスなのだから。

 セセッションでシーレが展覧会を行うとき、クリムトは既にこの世を去っており、むしろ彼の指導的な役割はクリムトの死によってもたらされたと言っても良いほどである(らしい)。なのにクリムトの死について言及さえされないというのはなんとも奇妙である。ヴァリの死を強調するには、そうせざるを得なかったのだろうか。

 この映画に描かれているのは、シーレの芸術に対する、そして芸術家たろうとする情熱と、社会の受容の(どちらかと言えば社会それ自体の変化によってもたらされた)変化である。だからそこに物足りなさを感じるし、けれどもそれによって普遍的なものを表現しえたのかもしれない。


 もうひとつの問題は、芸術か猥褻か、みたいな論争である。シーレは勿論、際どい絵や小説を制作したために窮地に立たされた人々は古今東西枚挙に暇がない。シーレは13歳の娼婦でも何でもない女の子と関係を持ったとして起訴される。その訴え自体は無事棄却されたのだが、子供にえっちな絵を見せたかどで暫く拘禁された上、子供をモデルにしたヌードは焼き捨てられてしまう。「これが芸術なもんか、いかがわしいポルノじゃないか!」と裁判官が吐き捨てるところはちょっと笑いどころ。なんせそのとき彼が持っている絵はまるで扇情的には見えないものなので。

 しかしこの映画は、シーレのえっちな芸術を無条件に肯定し、称揚している訳ではない。例えば芸術家仲間とモデルのモアを連れて訪れた田舎で、屋外で裸の写真を撮ったりするのだが、そりゃまあ公序良俗にあれですよね、という感じがする。

 そして活人画というモチーフ。シーレとモアは活人画を見せる劇場で出会う。その舞台で役者がおっぱいを出して静止する様と、シーレがおっぱいを出していたり股を広げていたりするモデルに「動くな」と命じてデッサンを始める様は、それがシーレの絵のスクリーン上での再現であることを鑑みれば同質であるように思う。その上でポルノとは違うものとして、マンコの芸術をどのように正当化すれば良いのだろう。

 それからこれは各国の判断で入っているのかもしれないが、シーレのチンコにモザイクがかかるシーンがあって、芸術猥褻問題を取り上げる中でこの表現は批評的だな、と思った。


 ちょっと否定的な感想になったが、シーレの絵がそこそこ見れてわーってなるし、セセッションにあるクリムトの壁画も写ってるし、オーストリアの風景がとっても綺麗だし、ゲルティが可愛いし、クリムトのビジュアル的な再現度が高い(頭髪の量はともかく)ので、視覚的にとても楽しめる映画だと思う。短いけど今日はここらへんで。


[参考文献]
ジェーン・カリアー『エゴン・シーレ―ドローイング水彩画作品集』新潮社、2003年

ズゼとマックの息子に会いに市原ぞうの国へ。あと上野とか。

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 ぞうが嫌いな人類は居ないので、今回はぞうについて書く。王さまシリーズの王さまも、ぞうのたまごで玉子焼きを作ろうと頑張ってたからね。はい。

 もうちょっと説明すると、王子動物園のインドゾウ、ズゼとマックの息子、結希が千葉県、市原ぞうの国で元気に成長中なのだ。王子動物園には幼稚園の頃からちょくちょく行っていて、愛着あるゾウだから東京に野暮用が出来たついでに会いに行って来た。ありがとう、野暮用!

 ズゼのこれまでの出産などについてはウィキペディアとかぞうの国と王子動物園の公式サイトとか参照。


(どうでも良いんだけどウィキペディアの「実在した象の一覧」ってタイトル面白くないですか。ハンニバルの象とかどこまで本当か分かんねえだろ……
実在した象の一覧 - Wikipedia

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