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缶詰の常套句

万年筆とか写真とか。

日本出身力士がうんたらかんたらについて感じる違和感そのほか

 ただのぼやきを、ハンナ・アーレントの引用から始めよう。彼女が「あんたユダヤ民族への愛が欠けてるんじゃないの」とふっかけられたときの返答である。

私はこの種の「愛」によっては心を動かされません。それには二つの理由があります。第一に、私はいままでの人生において、ただの一度も、何らかの民族あるいは集団を愛したことはありません。……私はただ自分の友人「だけ」を愛するのであり、私が知っており、信じてもいる唯一の愛は、個人への愛です。第二に、この「ユダヤ人への愛」は、私自身がユダヤ人であるからこそ、私にはむしろ何か疑わしいものと見えるのです。

(2006『現代思想十月臨時増刊号 第三四巻第十二号』早尾貴紀ジュディス・バトラーの(不十分な)「イスラエル批判/シオニズム批判」からの孫引きです。ご容赦を。)


 相撲が好きだし、高安が好きだし、荒鷲が好きだ。集団への愛や忠誠が、個人や個別の競技に対する愛に優先したらいやだ。(「好きだ」と「嫌だ」にとどめておく。)でもワイドショーとかの普段相撲を取り上げない人たちは、稀勢の里横綱になることより、日本人が横綱になることを喜んでいる感じがするからうんざりする。

 言いたいことはこれ以外特にないから、以下はただのゴミである。


 稀勢の里おめでとう。それと白鵬がんばれ。白鵬好きだから強いところをもっと見たい。今場所の相撲、負けた取組では馬力や勢いが劣る部分があったのかもしれないが、その分彼の持っている巧さというか、技術、判断力が光っていたと思う。はやくまた優勝して欲しい。優勝インタビューで偉そうなところが見たい。

 稀勢の里はすごい頑張ったし、去年は年間最多勝だし、足腰の強さが際立っていて、怪我も少ないから強い横綱になるんじゃないかな。すごく楽しみ。

 琴奨菊のときも豪栄道のときもそうだったけど、日本出身横綱が十なん年ぶりに誕生するか、みたいなことで普段ろくに相撲を取り上げない民放などが騒いでいる。「にっぽんの国技である相撲を外国人たちから日本人の手に取り戻す!」とでも言いたげだ。

 なんで「日本出身」なんていうまどろっこしい言い方をするのかと言えば、武蔵丸横綱昇進時には日本国籍を取得、すなわち日本人になっていたため、「日本人」という表現を使うなら「武蔵丸以来の日本人横綱」ということになるからだ。

 相撲協会のルールでは帰化しないと親方になれないらしい。少なくとも故北の湖理事長はそういう意見だったという。*1

 なんか、それってダブルスタンダードっぽくないか。一方では国籍を重視し、他方では「出身」というなんとも言えず香ばしい(「血と言いたいんだろう? 正統な日本人と言いたいんだろう? 正直にそう言えや」と煽りたい欲求を堪えながら)変えようのない属性を重視する。

 同じ集団がこの2つの意見を支持しているのかは分からないけど、外国人、ないし外国出身の人が大相撲で強いということに対する抵抗感を表しているのはどちらも同じだろう。ちょっと悪意のある書き方をするけど、「なんか強い力士外国人ばっかでいやだな〜。え?帰化してるから日本人?そういうことじゃなくてさ〜」という雰囲気がある。そんで、「まあこのご時世だから外国人が相撲取るのは良いけど、でも親方になりたいんだったら帰化してよね」という公的な(!)態度を取るわけだ。

 帰化を迫るということは、多くの場合、彼らのそれまでの帰属を捨てさせることを意味する。その決断は、たぶんかなり勇気の要るものだと思う。なんていうか、国籍を仮に重視しないとしても、自分がそれまである集団に帰属してきたという証が無くなるに等しいことなのかもしれない。人によってこの辺の意識はまちまちだと思うけれども。

 それで、「日本出身」っていうのを殊更にアゲることは、その勇気を出して同化の意志を示した人に対して、「いや国籍とかじゃなくて血なんですよ、あなたはどう頑張っても我々と同じにはなれないんですよ」と突き付けてるのと同じだと思う。だから感じ悪い。

 まあなんていうか、百歩譲ってそういう気持ちが湧いてくるのは、相撲が神事であり、国技とされているからなのだろう。法律で定義されていない以上、相撲は正式な国技ではないらしいが。そんでユダヤ教でもあるまいし、神道は日本人実践の主体を限るものではないと思うが。

 でも「相撲は日本人の美意識を具現化したもので、にっぽんの心が詰まってるから日本人がやるべき」みたいな意見がある。「にっぽんの心は外人なんかには分かりまへん」みたいな。相撲の全てが最初から神事だったわけでもないし、それが色んな経緯を辿って、まあ多分日本的ないろいろを吸収するかたちで江戸時代の形になったっぽい。それなら、その相撲の実践こそが日本的なものの表現であって、日本人がやらなくちゃ出来ないものではないと思う。相撲とかそういうのに従事してないそこらへんの日本人に、相撲に具現化されるような精神性みたいなものはべつに無いと思うし、他の芸術やらなんやらで示される日本人の心って相撲のそれとは異なる性質のものだと思う。なんていうか国と一生懸命結びつけることはないと思う。

 土俵の充実とか相撲の面白さというものと、力士の出身国とか国籍とかって、全然関係ないでしょう。体が大きければ自動的に有利になるようなスポーツじゃないし、そこが相撲の面白さであって。締め込みの色がいろいろあるみたいに、色んな肌の色の人、色んな顔をした人、色んなスタイルで相撲を取る人が居て、それぞれが勝ったり負けたりしながらめっちゃ強い力士が頭角を現す、みたいなのが楽しいんだと思う。

*1:ウィキペディアで恐縮ですが、「北の湖元理事長など、日本国籍のない親方を容認しないことを明確に表明している親方衆も多く存在する」との記述があり。 朝青龍明徳 - Wikipedia2017年1月24日閲覧