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缶詰の常套句

万年筆とか写真とか。

『エゴン・シーレ 死と乙女』はちょっぴりえっちな活人画だった

映画

 シーレは一番好きな画家。それにしても何で今シーレなんだろう、と思いながらもフライヤーのカットに惹かれたので観に行った。シーレを描いた映画だと思うとちょっと物足りないけど、格好いい仕上がりではあった。


※伝記映画にネタバレが存在するのかよく分からないけど多分あります。


 1918年のシーレの死と、モア、ヴァリ、エディット(とその姉)という三人の女性との出会いを交互に描く、構成はふつうの伝記映画。<<死と乙女>>のモデルでもあったヴァリとの関係を中心に据えていて、思春期を脱していないようなシーレの強烈な自意識みたいな部分は全然出て来なかった。最初から最後まで激モテ女たらしで、まあ確かにモテたのかもしれないけど、終始「成熟した大人の男でござ〜い」みたいなのはなんか違う気がする。でも多分監督の方がシーレのことをただの一ファンなんかよりずっと調べていると思うので、違うとかは余り言わないでおこう。

 でもせっかく鏡をモチーフとして仰々しく使っているのだから自画像を描くシーンが一度ぐらいあっても良いじゃないか、と思った。生涯に渡って繰り返し、執拗に、最も手近なモデルでもあった自分自身を見つめたシーレの映画に自画像がひとつも出て来ないなんて〜〜〜、それにシーレの画風の変遷とかもっとしっかり〜〜〜〜〜、と憤っても仕方ないのだな。これはシーレの画業を紹介する映画ではなくて、エキセントリックなカリスマ天才イケメンのめちゃモテロマンスなのだから。

 セセッションでシーレが展覧会を行うとき、クリムトは既にこの世を去っており、むしろ彼の指導的な役割はクリムトの死によってもたらされたと言っても良いほどである(らしい)。なのにクリムトの死について言及さえされないというのはなんとも奇妙である。ヴァリの死を強調するには、そうせざるを得なかったのだろうか。

 この映画に描かれているのは、シーレの芸術に対する、そして芸術家たろうとする情熱と、社会の受容の(どちらかと言えば社会それ自体の変化によってもたらされた)変化である。だからそこに物足りなさを感じるし、けれどもそれによって普遍的なものを表現しえたのかもしれない。


 もうひとつの問題は、芸術か猥褻か、みたいな論争である。シーレは勿論、際どい絵や小説を制作したために窮地に立たされた人々は古今東西枚挙に暇がない。シーレは13歳の娼婦でも何でもない女の子と関係を持ったとして起訴される。その訴え自体は無事棄却されたのだが、子供にえっちな絵を見せたかどで暫く拘禁された上、子供をモデルにしたヌードは焼き捨てられてしまう。「これが芸術なもんか、いかがわしいポルノじゃないか!」と裁判官が吐き捨てるところはちょっと笑いどころ。なんせそのとき彼が持っている絵はまるで扇情的には見えないものなので。

 しかしこの映画は、シーレのえっちな芸術を無条件に肯定し、称揚している訳ではない。例えば芸術家仲間とモデルのモアを連れて訪れた田舎で、屋外で裸の写真を撮ったりするのだが、そりゃまあ公序良俗にあれですよね、という感じがする。

 そして活人画というモチーフ。シーレとモアは活人画を見せる劇場で出会う。その舞台で役者がおっぱいを出して静止する様と、シーレがおっぱいを出していたり股を広げていたりするモデルに「動くな」と命じてデッサンを始める様は、それがシーレの絵のスクリーン上での再現であることを鑑みれば同質であるように思う。その上でポルノとは違うものとして、マンコの芸術をどのように正当化すれば良いのだろう。

 それからこれは各国の判断で入っているのかもしれないが、シーレのチンコにモザイクがかかるシーンがあって、芸術猥褻問題を取り上げる中でこの表現は批評的だな、と思った。


 ちょっと否定的な感想になったが、シーレの絵がそこそこ見れてわーってなるし、セセッションにあるクリムトの壁画も写ってるし、オーストリアの風景がとっても綺麗だし、ゲルティが可愛いし、クリムトのビジュアル的な再現度が高い(頭髪の量はともかく)ので、視覚的にとても楽しめる映画だと思う。短いけど今日はここらへんで。


[参考文献]
ジェーン・カリアー『エゴン・シーレ―ドローイング水彩画作品集』新潮社、2003年