缶詰の常套句

万年筆とか写真とか。

嘘だと言ってよ、ジョー。

 今日は何も手に付かなかった、と言えば大袈裟かもしれないが、暇が出来る度にニュースを確認していた。日馬富士のことである。

 語りえぬことについては沈黙しなければならない。無論これはこのような状況における道徳的格率などではない。しかし何も言いようがない。何が本当なのかも分からなければ、どうあるべきなのかも分からない。したがって、これから書かれようとしていることはナイーヴな感傷の域を出ない。個別の、この一連の報道についての発言とも言えないようなものだろう。

 スポーツはある秩序の内部にひとつの外部を作る。その秩序の内部に制度として成立しながら、法の効力が及ばない外部。試合中にボクサーの鼻がへし折れて、それを誰もが目撃していても、警察が動くはずもないことがそれを示している。当事者間のコンプライアンスだけの問題ではないだろう。極めて危ういアレゴリーだが、この制度は基地に似ている。違うのは、スポーツとそれ以外を区切るものが明文化さておらず、共同幻想、こう言ってよければ物語といういかにも脆い地盤の上に成立していることだ。更に付け加えるなら、基地はスペクタクルではない。

 スポーツは戦争の比喩だ、狩りのそれだ、ということがよく言われる。チームスポーツにおいてはきっとそうなのだろう。だが個人間の殴り合いに近いスポーツは、ショーとしての暴力という側面が強いように思える。その上で、金を払うから殴りあって見せてくれ、と見事な身体能力を持った若者たちに言っている。誰が、あるいは観客の全てが、というのではなく、構造が、という話だ。暴力が観たい、なるべく激しい殴り合いを観たい、それがルールに従いその制度内で行われる限りにおいて。自分たちと同じ地平で行われる非人称の暴力は<現実界>的すぎる。ジジェクなら多分そんなふうに言う。必要なのは英雄とルールだ。土俵の、リンクの、フィールドの外で何かがあれば、こちらの秩序が乱れる。

 業が深いと思うのは、観客という集合的な存在と、顔のある個人という選手らの非対称性だ。金と役割を与えて、観ている間だけの激しさを命じ、その後は、自分たち同じ秩序に従うことを求める。一方で、フィールド外でも英雄的であることが期待される。そのような生き方を個人に半ば強制する。人はそんなに器用なのだろうか。毎日のようにスペクタクルを見せてくれる人々には、まったく幾ら金を払っても足りない。別に、批判して、そうではない状態にせよなどと言うつもりはないし、出来るとも思わない。逆に、多少の暴力を寛恕しろと言いたいのでもない。ただ、スポーツという制度の限界がどこかに見えているような気がするだけだ。


 wikipediaキンセラの『シューレスジョー』でしか知らないが、昔大リーグでブラックソックス事件という八百長スキャンダルがあった。そのことで追放になった選手のひとり、ジョー・ジャクソンに一人の少年が"Say it ain't so, Joe!"という言葉を投げたと伝えられる。wikipediaによるとこれは伝説であるし、スキャンダルの真相についても与り知るところではない。ただ、今朝日馬富士の一報を聞いた時に真っ先に思い浮かんだのがこの言葉だった。エモく訳せば「嘘だと言ってよ、ジョー!」ということになる。まるきり嘘でなくてもいい。ただ、今報じられていることの少しでも、或いはこれから起こるであろうバッシングの少しでも、「そう」ではないと信頼のおける誰かが言ってくれたら。それはそんな感傷である。