缶詰の常套句

万年筆とか写真とか。

君を名づけるエリオ、シャロン、シャラメ。

 わたしたちは名づけられること(あるいは名づけられないこと)――さらにはみずから名づけること――の排除性と、名づけの不可避性のあいだに立ち尽くしつつ語る。名づけは一回性のものではなく、生成のプロセスであると、わたしたちは「~である」と名のる(カミングアウトする)のではなく、語りによって「~になる」((ビ)カミングアウト)するのだと主張する。
 竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』p.210


 そんなに一生懸命書くつもりもないから適当な引用から始めてみたのだが、『君の名前で僕を呼んで』のこと、何度かツイートしたんだっけ。まあ、あんまり流行っているから言及しないのももったいない。知り合いのお姉さんが、シャラメとヤりたい、それが無理ならせめてシャラメを孕みたい、みたいなことばっか話しているが、そんなものか。
 半ズボンのアメリカ人と地中海こねて作ったみたいな美少年のBL。一応場所と時間は設定されてるけどあまりにユートピア的でセカイ系だ。肉体関係を持ち始めてから二人は互いの名前を交換し、自分の名前で相手を呼ぶようになる。命名の法。名づけはそんなにロマンティックなものではないだろう。重荷。拘束。だが、名づけさせること、"call me by your name"と命じることは相手の名前を引き受けると同時に相手の行為を所有する。互いに。同一化と欲望、対象であることと対象を持つことは両立しうるとバトラーが述べているのは興味深い。(Butler, Judith. "Imitation and Gender Insubordination." Inside/Out: Lesbian Theories, Gay Theories. Ed. Diana Fuss. Routledge, 1991.)
 名前の往還によって二人だけの世界は否応なく閉じられ、高められる。それは、本当の名を呼ばれることで駆動する愛の物語の対極をなす(例えば、『お嬢さん』とか)。どこかに真実があるのではない、その場限りの名づけと同一化の反復。
そこで『ムーンライト』を思い出したのだが、これもまた二人の男が名付け合う話だ。細部を忘れてきてしまったが、Littleというあだ名を負わされたいじめられっ子のシャロンは大人になると少年時代の重要な存在であるフアンのようなイカツイ売人に転身を遂げ、自らをBlackと呼ばせて黒人アイデンティティを引き受ける。子供時代と大人時代の間に重要な学生時代の幕があって、そこでシャロンは唯一の友達であるケヴィンとマリファナをキメながらちょっと性的な関係になるのだが、その前にたしか、シャロンがケヴィンにあだ名を付けるのだった。多分、どっちだったか、肝心なところをはっきり覚えていないのだが。


 うーん、ブコウスキーの朗読?ライブ?映像を見ながらちょっとばかり飲んだので、このあたりで乱筆を許してもらおうかな。続きをいつか書くかもしれない。