缶詰の常套句

万年筆とか写真とか。

『海辺の生と死』とかいうからアナベル・リー読んだじゃん。

久し振りの更新。朝から神戸で『海辺の生と死』を観た。満島ひかりである。結婚したい。

その後ライブに行ったりなんかしていた所為で考えが全然まとまっていないので、ネタバレとか気にせず適当に書くことにする。あと、原作のこととか監督のこととかなんにも知らないしまだ調べたりしていないので、変なこと書いちゃうかも。

満島ひかりのイメージビデオみたいな映画だった。脱ぐし。彼女が魅力的すぎて、他の人が全員霞んでいたし、そもそも、タエ先生との関わり以外で他の人物が描かれることがないので、ベクデルテストじゃないが、やっぱり彼女のための映画なんだって感じがする。男のほう、なんていうか無限に代替可能な気がする。ともかく、テーマは生と死っていうか昔ながらの、数千年来の「愛と死」である(とひとまず言っておかなければならないのだが)。新鮮味は無いが、みんな愛と死の物語が大好きだし、満島ひかりにはそれがものすごく似合う。男が最後に(と取り敢えず言っておくが)踏んだ砂をかき集めて抱きしめるシーンなんて、これまでの負けた高校球児を全員束にしてぶつけても到底叶わないだろう。

きれいなワンピースを来て、結局靴を脱ぎ捨て、海を泳いで海軍の隊長に会いに行くトエ先生。結局最初の晩は会えないのだが、ハンカチを待ち合わせ場所の小屋にくくりつけておく。正確に思い出せないのだが、「トエは来ました」に始まる手紙(渡せたのか、よくわからないが)が最高にエモい。あれは名文。もういっかい観たい。

CMで中島みゆきの「ファイト!」を歌っていたときも思ったが、満島ひかり、めちゃくちゃ歌がうまい。好き……。この映画でも、実によく歌う。その歌はほとんどが島の言葉で歌われる伝承的な歌で、作者や歌い手の固有名ではなく島の者としてのアイデンティティに結びついている。よそからやってきた朔中尉は、そうした歌を教わることで島民やトエ先生との親好を深めていくという寸法。そうして滑らかに、流れるように歌われる言葉と、語られる言葉との絶望的な乖離。それは島の言葉と標準語の乖離にも似て、他者に己を伝えることの困難を語る。しかしだからこそ、二人は縁を結ぶことになったのだとも思う。隔てるものは身分や柱だけではない。

とにかくとにかく、この映画は満島ひかりの魅力を全面に押し出している。しかし、そのために、戦争という舞台が本当に必要だったのだろうか、と終盤まで訝っていた。愛と死の物語を語るとき、戦争を使えばそれが余りに美化されすぎる。どれだけプロパガンダ色の強いシーンを挿入したところで、こんなにも、目前に迫った死によってしか印し付けられない愛を描いてしまえば、特攻隊をパトリオティズムのロマンスとして描いたなんやかんやと五十歩百歩になるのではないかと。だが、最後に分かったのは(実は冒頭から暗示されてはいたのだが)、そんな話では全然ないということで。

結末を言ってしまえば、朔中尉は出撃せず(船が直らなかったのかな?)、終戦を迎え、村の誰も死なず、トエ先生も自決しない。朔中尉から大坪を介して「元気デス」という手紙を受け取るところでこの映画は終わる。そう。「な〜〜〜んだ」って思うと思う。これだけ大騒ぎして死なないのか、死んだ方が感動するのに、みたいな。そう、死んだ方が泣ける、そのことに対する批判なのだと思う。愛と死のロマンスに、戦争のロマンスに、この映画は挑戦していると思う。二人の愛の前提としてあった切迫する死が消え失せたとき、物語は不可能になるだろう。唐突に映画は終わる。無名の人々に歌い継がれる歌のような生を多分肯定しているのだろう。


アナベル・リー」はポーの詩だけど、これも愛と死、と言えば言える。人生最後に、幼少期の恋人?婚約者だっけ?の詩を作って死ぬとか、格好いい。 "It was many and many a year ago, / In a kingdom by the sea"という文句で始まるので、上映前に思い出して読んでいたのでした。